このバイクが生まれたのは年は1970年。 メーカーから交通安全協会へ寄贈され、 安全運転教室の教材として使われた後は、長く倉庫の隅に 眠っていたのでした。 おいらが高校生になった年、倉庫の隅で埃の塊のようなバイクを 親父が見つけ、うちに払い下げられてきました。 125ccの小さな青いバイク… |
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これは輸出モデル、マフラー形状が違う。 |
古めかしく、じじむさいスタイルでとてもカッコ悪いバイク だったのですが・・・ 当時2stしか乗ったことが無いおいらは、こいつの出す低い排気音が とても気に入りました。 「ちょっと借りるよー」ちょこちょこ借りて乗るうちに、 ハンドルは低くなり、色は塗り替えられシートはシングルシートへ… 目指すは往年のGPレーサー「ノートンマンクス」(誰も知らんか…) ようするに、今で言うSRのカフェレーサー風カスタムをやってたんだな |
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実はこのバイク、意外に速かった。 排気量が違うので当然だが、当時全盛のフルパワー原付 MBX50やRZ50などは相手にならず、ワンクラス上のAR80とも 互角に渡り合えたのだ…なんじゃこのじじいばいくは!? その正体は…ホンダCB125S 1970〜72に2年だけ作られていた(その後JXにモデルチェンジ) 後で知る事になるが、当時ホンダからレース用パーツが販売され サーキットで大活躍したバイク。 (当時125クラス無敵と呼ばれたらしい・・・) モリワキからはエンジンを水冷化したレーサーまで出現し、 2st勢を相手に闘った4stマシンだったのだ。 |
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なんてことは全然知らずに乗り回していたのだが… 高校を卒業し、関西へ就職をした。当然目当ては鈴鹿サーキット! 目論見では、F3マシンを手に入れ4耐出場。そして夢は8耐へと… の、はずだったんだが、世の中そんなに甘くなかった。(当然だね!) 入社して半年も経たず、上司から一言、 「君、福島に転勤ね」 |
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夢も希望も失いましたよ… だって(当時)福島にサーキット無いじゃん!! つーか、福島がどこなのかよく判ってなかった。 イメージでは津軽海峡冬景色(爆) 失意のおいらは、なぜかカワサキZ750FXを買いにバイク屋へ… なんでF3のベースマシンじゃ無かったのだろう…? たぶんもうレース出来ないと思い込んでたんだな。(腕も腕だしね!) でも、その頃はカワサキの750はGPz750Fになってたし、 今みたいにやたらカワサキのZ系に乗りたがる連中も居なかったんで、 ボロボロの中古しか無かった。(でもFX好きだったのよ) で、見つけた売れ残りの新古車Z750FXVを買って ツーリング野朗を目指しました。 でも、福島に住み始めて回りの地理がわかり始めると気が付いた。 |
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隣(宮城)に菅生サーキットがあるじゃん!! が、…その直前にバイク買い換えちゃってた…SRX−6に… とりあえずサーキットライセンスを取りに行く。 SRX−6はカテゴリ-的にはF1クラス・・・ 参戦出来る訳も無く。。。 「なんか出れるレースないのかなぁ…お金かかんないやつ…」 |
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そんな時ふと見つけた雑誌の記事。 「CRMミーティング」 と言ってもホンダのOFF車、CRMのオーナーが集う訳じゃない。 「クラッシック・レーシング・モーターサイクル」 ミーティングだったんだな。 往年のレーサーを蘇らせてサーキットでレースしよう! ってイベントだった。参加資格は1972年以前に製造されたバイク・・ ←こんなやつね |
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1972年以前・・・あるじゃん!実家に!CBが!! 早速実家に電話して、トラック便で送ってもらった。 レース出れるなら何でも良かった。 |
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喜び勇んで出た初レースだったけど、そこで厳しい現実を知る事になりました。 続く・・・ |